マイクロポップ@水戸芸

夏への扉 -- マイクロポップの時代 2007年2月3日(土)〜 5月6日(日)

スーパーフラット以来、ひさ〜しぶりに「時代の空気をうまいこと言わはるな〜」と感じる言葉に出会った気がする。
働きかた、日々の生活、いろんな事に通じてそうな言葉。も少し暖かくなったらぜひ水戸までいきたいと思う。

以下、引用。

マイクロポップ宣言 : マイクロポップとは何か
松井 みどり


マイクロポップとは、制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らず、様々なところか集めた断片を統合して、独自の生き方の道筋や美学を作り出す勢を意味している。

それは、主要な文化に対して「マイナー」(周縁的)な位置にある人々の創造性である。主要な文化のなかで機能することを強いられながら、そのための十分な道具を持たない人々は、手に入る物でまにあわせながら、彼等の物質的欠落や社会的に弱い立場を、想像力の遊びによって埋め合わせようとする。

マイクロポップは、また、人から忘れられた場所や、時代遅れの事物に目をつける。その場所で見つけた小さな事実 --場所の隠れた意味を表すような-- をもとに、人々や物を新たな関係性の連鎖のなかに置き換えながら、コミュニケーションを促すゲームや集いの場をつくり、共同体への新たな意識が育つきっかけをつくっていく。

マイクロポップの概念は、フランスの哲学者ジル・ドゥル−ズとフェリックス・ガタリによる「マイナー文学」の定義と、フランスの歴史学者ミシェル・ド・セルトーが主張した「日常性の実践の戦術」の理論に触発されている。ふたつとも、移民、子供、消費者など、常に「大きな」組織に従属している周縁者と見なされている人々が、その一見不利な条件を利用して自分たちに適した環境や新たな言葉を作り、メジャーな文化を内側から変えていく、「小さな創造」の革命的な力についての方法論なのだ。

マイクロポップの「ポップ」という言葉も、ドゥルーズガタリの言い回しから採られている。それは、アメリカのポップ・アートとは関係のない小文字のポップだ。それは、大衆文化のメジャーなスタイルを指すのではなく、制度にたよらず自分の生き方を決めていく、普通の人の立ち位置を示している。知や価値の体系の絶えまない組み替えを現代の状況として受け止めながら、彼らは日常の出来事の要請にしたがって自らの思考や行動の様式を決めていく。それは、高等文化と大衆文化の階層にかかわらず、様々な体験から情報を得、必要に合わせて知識を採り入れ組み替えることのできる、大都市の住人やインターネットのユーザーの姿勢と同じだ。

この意味で、「マイクロポップ」は、マイクロポリティカルでもある。文化の制度的な思考の枠組みやグローバルな資本主義や情報網による物神崇拝に抵抗して、「いまここ」の実質的な条件や要求に応えながら、独自の知覚や創造の場を見いだし、確保しようとするその姿勢は、個人の自発的な決定能力の、つつましいが力強い主張を示すのである。

それは、子供のような想像力によって、しばしば使い棄てられる日常の安い事物や「とるにたらない」出来事をシンプルな工夫によって再構成し、忘れられた場所や、時代遅れの物や、用途が限定されている消費財に新たな使い道を与え、人を自らの隠れた可能性に目覚めさせる。マイクロポップな姿勢はこのようにして、凡庸な事象に潜む美を見い出し、人と物が新たな関係性を結び意味を得る文脈を作り出していくのである。

マイクロポップな立ち位置とは、ポストモダン文化の最終段階において、精神的生存の道を見い出そうとする個人の努力を現わしている。それは、60年代に始まり、現在その非人間化の極限に達しているかに見える「進歩」の過程への抵抗なのだ。過度に工業化され、組織化された今日の世界を、視点の小さなずらしやささやかな行為を通して生の柔軟さやその複雑な多層性をつかまえることで変形しながら、マイクロポップな人間は、人間の生きる世界の価値の再生の可能性を広げていくのである。