AIBO

会社に初代AIBOがやってきました。なんでも前の会社で購入したものの、その後なんとなく居場所を失っていたのを家で飼っていたそうです。なんとも小学校の飼育小屋にいたうさぎのような話ですが、同じ社内でもう一人AIBOブリーダーがいる事が判明。やはり会社で居場所を失っていたのをひきとって家で飼っているとの事。飼育係の多い会社に来週にはうさぎ、じゃなくて初代AIBOが2匹揃う事になりそうです。
・・という事で日本にはかつてAIBOがいました。

みんなで投票チャンネル

いまwiiを褒める事って政治家を批判する事くらいにたやすくなってきている世の空気な気もしますが、
やっぱり褒めたくなってしまうので悪しからず。
みんなで投票チャンネルというのがスタートする模様。

WiiConnect24を利用して配信される二者択一のアンケートに投票し、どちらに票が多く集まるか予想したり、投票結果を楽しむチャンネルです。
アンケートには国内限定と世界共通の2種類があり、日本各地、世界各国の人々の考えかたの違いを知ることができます。

という事で、コトノハとかよくあるワンクリックアンケートに似てはいますが、ここでもmiiをうまく使ったり

予想結果の成績に応じて変化する「世の中わかってる度」、多数派・少数派のどちらに投票したかによって、世の中と自分との間にどれだけギャップがあるかがわかる「世の中とのギャップ」といったユニークな結果も見られます。

など、やはり「wiiならでは」の展開がかなり期待できそう。。ゲームを個人単位から家庭、仲間単位へシフトさせた姿勢同様、インターネットを個人から家庭、仲間単位へシフトさせるイメージも益々見えてきました。また、wiiの場合ハード自体がソフトみたいな価値を持つので次のソフトは?とかあまり気にしてすらなかったんですが、今後のソフトウェアのラインナップを改めてみても、うちみたいな小さな子供のいる家庭ではクッキングママあたりは絶対買っちゃうんだろ〜なと思うし。。とにかく、徹底的にぶれてないプロダクトだな〜と本当に褒めたくなります。おおげさですが同じ日本人として世界に対して鼻が高い、そんな気持ちにすらなります。アメリカにアップルがあるのであれば日本には任天堂がある。
言っちゃった・・

空想無印

あの空想生活OEM版、空想無印なんてのがはじまっていた事に今日気づきました。
ちょっとよくわからないのが、もともとMUJINETのコミュニティでやっていたユーザ参加型の商品開発ってそもそも空想生活のシステム使っていたらしいので、今回あらためて空想無印としている狙いはいまいち見えません。廃盤品復刻とかはとってもいい企画だと思いますので、このへんを広げていくのが狙いなのかな?
特に無地のゴキブリ取りはいいですね。ゴキブリはゴキブリホイホイに描かれているような「ゴキブリの幸せな中流家庭のイメージ」に思わず騙されてつかまってしまう訳では、決してありませんから!!むしろあれは・・・「幸せな家庭」を夢見たゴキブリを一気に生き地獄へと陥いれたり〜とニヤリとほくそ笑む人間側の狂気の表れにしかすぎないものですね。
※商品コメント欄に「目立たせたくないものは、目立たないように。・・」とさりげなく鋭く書かれており、クールです。

wasabeat

wasabeat
iTune的なIFをブラウザに入れるとこうなるって感じかな。。タグクラウド的な整理方法にまだ自分のリテラシーが追いつけてないせいか(このはてなblogですら使いきれてない)こういうきっちりしたファセットな分類っていうんでしょうか?でのIFってまだまだやれる事あるんでは?と思う。

mii

最近wii番号交換してのmiiでの交流がはじまりました。これとったときなぜかまゆが茶色だったwので後で直してますが、こんな感じです。

mii自体のキャラクタの力もあると思うんですが、あの似顔絵広場全体の世界観が、こういう場だったら絶対に荒れる空気とかってないよな〜と思わせるです。ちょっと違うけど竹熊健太郎さんの「中央線トーマス化計画」的な感じというか・・

マイクロポップ@水戸芸

夏への扉 -- マイクロポップの時代 2007年2月3日(土)〜 5月6日(日)

スーパーフラット以来、ひさ〜しぶりに「時代の空気をうまいこと言わはるな〜」と感じる言葉に出会った気がする。
働きかた、日々の生活、いろんな事に通じてそうな言葉。も少し暖かくなったらぜひ水戸までいきたいと思う。

以下、引用。

マイクロポップ宣言 : マイクロポップとは何か
松井 みどり


マイクロポップとは、制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らず、様々なところか集めた断片を統合して、独自の生き方の道筋や美学を作り出す勢を意味している。

それは、主要な文化に対して「マイナー」(周縁的)な位置にある人々の創造性である。主要な文化のなかで機能することを強いられながら、そのための十分な道具を持たない人々は、手に入る物でまにあわせながら、彼等の物質的欠落や社会的に弱い立場を、想像力の遊びによって埋め合わせようとする。

マイクロポップは、また、人から忘れられた場所や、時代遅れの事物に目をつける。その場所で見つけた小さな事実 --場所の隠れた意味を表すような-- をもとに、人々や物を新たな関係性の連鎖のなかに置き換えながら、コミュニケーションを促すゲームや集いの場をつくり、共同体への新たな意識が育つきっかけをつくっていく。

マイクロポップの概念は、フランスの哲学者ジル・ドゥル−ズとフェリックス・ガタリによる「マイナー文学」の定義と、フランスの歴史学者ミシェル・ド・セルトーが主張した「日常性の実践の戦術」の理論に触発されている。ふたつとも、移民、子供、消費者など、常に「大きな」組織に従属している周縁者と見なされている人々が、その一見不利な条件を利用して自分たちに適した環境や新たな言葉を作り、メジャーな文化を内側から変えていく、「小さな創造」の革命的な力についての方法論なのだ。

マイクロポップの「ポップ」という言葉も、ドゥルーズガタリの言い回しから採られている。それは、アメリカのポップ・アートとは関係のない小文字のポップだ。それは、大衆文化のメジャーなスタイルを指すのではなく、制度にたよらず自分の生き方を決めていく、普通の人の立ち位置を示している。知や価値の体系の絶えまない組み替えを現代の状況として受け止めながら、彼らは日常の出来事の要請にしたがって自らの思考や行動の様式を決めていく。それは、高等文化と大衆文化の階層にかかわらず、様々な体験から情報を得、必要に合わせて知識を採り入れ組み替えることのできる、大都市の住人やインターネットのユーザーの姿勢と同じだ。

この意味で、「マイクロポップ」は、マイクロポリティカルでもある。文化の制度的な思考の枠組みやグローバルな資本主義や情報網による物神崇拝に抵抗して、「いまここ」の実質的な条件や要求に応えながら、独自の知覚や創造の場を見いだし、確保しようとするその姿勢は、個人の自発的な決定能力の、つつましいが力強い主張を示すのである。

それは、子供のような想像力によって、しばしば使い棄てられる日常の安い事物や「とるにたらない」出来事をシンプルな工夫によって再構成し、忘れられた場所や、時代遅れの物や、用途が限定されている消費財に新たな使い道を与え、人を自らの隠れた可能性に目覚めさせる。マイクロポップな姿勢はこのようにして、凡庸な事象に潜む美を見い出し、人と物が新たな関係性を結び意味を得る文脈を作り出していくのである。

マイクロポップな立ち位置とは、ポストモダン文化の最終段階において、精神的生存の道を見い出そうとする個人の努力を現わしている。それは、60年代に始まり、現在その非人間化の極限に達しているかに見える「進歩」の過程への抵抗なのだ。過度に工業化され、組織化された今日の世界を、視点の小さなずらしやささやかな行為を通して生の柔軟さやその複雑な多層性をつかまえることで変形しながら、マイクロポップな人間は、人間の生きる世界の価値の再生の可能性を広げていくのである。


プリンター

会社のプリンターが故障がち。プリンターは機能は向上しても故障がちな体質だけは変わらない機械なのだとつくづく思う。故障時の対応表示が充実しているのは、日常的な不具合を前提としている証拠。でも、あの故障時の対応表示にはときどき首をひねりたくなる事がある。今日出たのが「Dの扉を開き、中のカバーを数回開け閉めしてください」え?一人で誰かに騙されてるバカのような気持ちになりながら、バタバタと何回かやると確かに直る。でもそのうち「Bの扉を開き、緩くつまんでください」とか「Cの扉を開き、そっとふいてください」とか、もっというと「Aの扉を開き、大声で叫んでください」とか、いつかそんな指示が出る日がくるのでは?と、いつも不安な存在。